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弁護士稲益寛明による法律×心理×情報処理その他関心事を書き留めるブログです。

黒澤明『羅生門』

 

羅生門 デジタル完全版

羅生門 デジタル完全版

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

本作品は、1950年に公開された黒澤明監督による言わずと知れた邦画です(原作:芥川龍之介『藪の中』『羅生門』)。脚本の独創性はもちろん、躍動的なカメラワークや光影の強烈なコントラストといった実験的手法、歴史的意味合い等、様々な角度から語ることが可能な名作ですが、やはり最大の魅力は、事件を巡って登場人物が各々異なった語りを行うというシンプルかつ奥行あるストーリーテリング自体にあるように感じられます。

これに関連し、心理学者・山田洋子氏は、『映画「羅生門」にみる証言の場の多重性』(現代のエスプリ350号/目撃者の証言―法律学と心理学の架け橋[188頁])という論文にて、本作品の特徴である多声の語り(事件当事者、目撃者、傍観者)とともに、その場所においても、①語られた犯行現場(藪の中:炎天)、②公的語りの場(法廷:白州)、③私的語りの場(羅生門:豪雨)、④黒澤明の物語、⑤観客の場という多重構造になっていることに着目し、本作品を、語りが「場所」との関連で生成されることを示す絶好の心理学モデルとして眺めることができると論じた上で、さらに以下のように言及します。

”…必ずしも人が嘘をつくということではない。人は、いつもすこしずつズレのあるパラレル・ワールドを移行しつつ生きている。過去の自分と現在の自分とのあいだにはギャップがある。過去の体験を語ることは、記憶の貯蔵庫にしまった固形物を引き出す作業ではなく、現在という場の情況のなかで、聞き手との相互作用のなかで生成される共同作業である。語ることによって過去が蘇り、断片的な体験に連関や意味が生み出されてくるのである。”

”観察者や語り手や聞き手がおかれた立場や視点という「場所」を抜きにして、脱場所的視点から純粋に第三者として、ものを見たり、体験したり、語ったりすることが可能かどうか、今まで客観的現実というものを成立させると考えられてきた前提そのものを根本的に問い返すことになるだろう。”

ここで、弁護業務に関し発生し得る語りの「場所」について考えると、弁護士にとって事件の端緒となる法律相談等はもちろんのこと、その後の交渉、法的手続(調停・審判・裁判等)、ひいてはメディア、インターネットといったように、可能性に照らせばその外延は際限なく広がっていきます。語りが「場所」との関連で生成される以上、発生する語りが「場所」の特性に大きな影響を受けることは明らかであって、「場所」によって語りの内容とそれを支える材料の有無・程度は当然に変化し得るわけであり、誤解を恐れずに言えば、裁判にて顕れる事実も、裁判という一つの「場所」において語られた/語ることの許された事実にすぎません(また、弁護士としては、このような「場所」の特性を利用できるような強かさも必要であるように思われます)。

さて、監督は、原作には存在しない終盤における羅生門前での旅法師と浮浪者のやりとりをもって、本作をエゴイズムとヒューマニズムの問題として明快に収斂させたとみるのが大方の見解のようです。しかしながら、氏の上記論考を前提とすれば、それすら事件を中心とした一つのパラレル・ワールドにおける一つの語りにすぎないのかもしれません。