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弁護士稲益寛明による法律×心理×ITその他関心事を書き留めるブログです。

テキスト・コミュニケーションにより生じる誤解

今日社会問題化しているインターネット上の誹謗中傷等トラブルについては、その匿名性が原因の一つとなっていることが多いと考えられています。しかしながら、友人や同僚、恋人同士や夫婦等といった特定の個人間であっても、メールやLINE等の些細なテキスト・メッセージのやりとりから、トラブルに発展してしまうことがままあります。

これに関し、次のように、「メールと音声による皮肉表現の伝達率」に関する興味深い実験があります(Kruger, J., Epley, N., Parker, J., & Ng, Z.-W.(2005).)。

…メールでも音声でも、受け手はメッセージのニュアンスに気付くはずと、送り手は自信たっぷりで…80%程度の確率で正確に伝わるはずと予測した。受け手の伝達率は音声条件で73.1%と、ほぼ予測どおりの値が得られ、予想は裏付けられた。しかし、メール条件の伝達率は56%と偶然確率をわずかに上回るにとどまった。

メッセージ文を読んだり聞いたりしたあとで、すべての参加者がメッセージのニュアンスを検出できるのはどのくらいと思うか評定した…メッセージを読んだ人は、皮肉と本心を弁別できていなかったにもかかわらず、弁別できていると固く信じていた。彼らはメッセージを音声で聞いた人たちのように、自分たちの検出能力に自信を持っていただけだった。

人々がオンラインでコミュニケーションする際、こうした自信過剰と自己中心主義が何をもたらすか想像できよう。誤解されたテキストメッセージは、有益な議論を敵意に満ちた攻撃的やりとりに転化する可能性がある…

『パトリシア・ウォレス/インターネットの心理学』

音声よりもメールの方がニュアンスが伝わりにくくなること、そして受け手はニュアンスの弁別に自信を持っていることは、弁護業務においては勿論のこと、日常生活においても留意を払わなければならない点のように思われます。音声によるコミュニケーションを日常において殊更意識することはほとんどありませんが、テキストによるそれと比べた場合、伝達内容そのものに加え、時間軸が発生するとともに、声の大きさ、トーン、明瞭度、スピード、タイミング等、様々ないわば情緒的変数が加えられるため、テキストに比しその情報量が圧倒的に多くなります。例えばテキストファイルのデータ量と、音声ファイルのデータ量を比べた場合、同じ内容であっても、前者に比し後者のデータ量が非常に多くなります。これを超えて、映像音声付オンライン・コミュニケーションによる場合や、直接のコミュニケーションによる場合においても、順次情報量が増加すると共に同様のことがいえるでしょう(このことは、裁判における尋問記録がテキストでしか残らないという問題等にも関わるものと考えられます)。

今日では、新たなコミュニケーション手段が次々と開発され、それらが日常において並列的に扱われることも多いため、「自分の伝えたいことが正確に伝えられているか」というコミュニケーションの根幹について、考えを及ぼすことが希薄になっていることが少なくないように感じられます。コミュニケーション手段の選択により生じるリスクは、何も情報漏洩に限ったことではありません。自戒を込めてではありますが、利用するコミュニケーション手段について、それを用いることが適切であるかどうか、改めて問い直してみる必要があるように思います。

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フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館 ―エクス・リブリス―』

 

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(字幕版)

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(字幕版)

  • 発売日: 2020/08/19
  • メディア: Prime Video
 

 本作品は、2017年に製作された巨匠フレデリック・ワイズマンによるドキュメンタリー映画です。タイトルのとおり、ニューヨーク公共図書館の多岐にわたる活動、サービス、その舞台裏等に焦点を当てた内容となっています。それらは、単なる書籍の貸出にとどまらず、就職活動支援、パソコン教室やダンス教室、演劇、朗読会等のほか、リチャード・ドーキンス、エルビス・コステロといった著名人によるトークショー、ひいてはコンサートにまで及びます。もっとも、映し出される各場面の状況や登場人物、議論内容等の説明は一切なく、ストーリーとしての抑揚は排斥されている上、3時間半程度のボリュームもあるため、ともすれば非常に退屈な作品に感じられてしまうかもしれません(私自身も途中で休憩を挟んで鑑賞しました)。

何よりもまず図書館が、民主主義社会での情報の扱いに関する深い議論と高い理念に基づき、ここまで多様なサービスを提供していることに非常に感嘆しましたが、一面それはいかなる公共サービスをいかなる機関の分掌とするかという役割配分の問題でもあり、多分に社会的文化的差異に影響を受けるのであって、ニューヨークという米国の文化運動中心地であるからこそ成立しうる側面もあり、このシステムが何処でも通用するかというとそうではないようにも感じました。とはいえ、市民の文化的な生活を維持・向上させるためのサービスを、知識・情報の集合体である図書館が提供するということは、少なくとも民主主義社会においては非常に相性がよく、他の機関に委ねた場合に比して質の高い内容となるように感じられました。

とりわけ目を引いたのが、デジタル・ディバイド問題の解消に向けて、モバイル・ルーターの無料貸出サービスを行っていた点です(デジタル・ディバイドとは、「インターネットやパソコン等の情報通信技術(ICT)を利用できる者と利用できない者との間に生じる格差」のことを言います)。「インターネットの普及によって、誰でも、いつでも、どこでも情報にアクセスできるという情報平等社会が到来した」との言説がありますが、これは各人においてアクセス環境が整い、情報モラルやリテラシーが身についていることを前提としているのであって、実際には、年齢や所得等により大きな情報格差が生まれています。各人の平等な情報アクセスというのはあくまで理想にすぎず、行政等による支援がなければより事態は深刻になってしまう現状にあると言わざるをえないようです。

ここで、行政から司法へスライドさせてみると、司法への平等なアクセスを確保するという声高に叫ばれた司法制度改革の理念に鑑みれば、裁判手続におけるICT環境の整備のみならず、弁護士の提供するサービスにおいても、クライアントとの間におけるICTの利活用・支援等は必須となるように感じます(それは限りあるリソースを必要な議論に集約し充実させることにもつながると考えます)。しかしながら、ファクシミリでの伝達慣行が未だに残ること等に象徴されるように、上記理念の達成への道程は相当の困難があるように感じざるをえません。ときに窮屈で億劫にも感じられるICTサービスを、いかに快適に利活用・提供できるかは、弁護業務においても当面の課題となるようです。

 

企画展「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」


www.2121designsight.jp

本展示は、国籍を超えて様々な表現媒体に携わる情報学研究者のドミニク・チェン氏がディレクションを務めた企画展です。AIによる自動翻訳を用いた体験型の展示や、複数の言語を母国語とするクレオール話者による映像、手話やジェスチャーといった身体表現、人と動物そして微生物とのコミュニケーションに至るまで、さまざまな「翻訳」のあり方を提示する作品が紹介されています。どれも非常に興味深い作品ばかりでしたが、特に永田康裕氏の「Translation Zone」という作品が最も印象に残りました。

本作品では、「料理の翻訳」にまつわる考察を始めに、情報伝達によってあいまいな意味や感情がこぼれ落ちていくことに焦点を当てることにより、文化の中にたゆたう「翻訳しきれないもの」を炙り出すことを試みているとのことです。その思考の具現化が秀逸で、例えば、「炒飯」や「ポトフ」といった、味覚や嗅覚等をもって具体的にイメージしやすい身近な料理の言葉と調理時の映像を用いることで、その翻訳時にこぼれ落ちる要素を、鑑賞者に対し非常に明瞭に認識させることに成功しているように感じました。

グローバル化が進展する社会において、弁護業務においても「翻訳」というテーマは決して無視することができません。渉外事務所に勤める弁護士はもちろんのこと、私のような小さな個人事務所の弁護士でも、外国人労働者の労働問題、海外法人が運営するSNS上のトラブル、国際結婚にまつわる法的問題等において、翻訳をめぐる様々な困難に直面することがあります。

翻訳作業には常に誤訳の問題が付きまといますが、中でも要通訳刑事事件の公判等においては、即時性が求められるが故にとりわけ強く顕在化するところであり、誤訳によって被告人に不利益が生じることのないよう、細心の注意を払う必要があります。誤訳を防ぐためには、曖昧な表現や、多義的な表現、誤訳の生じやすい構文(二重否定等)などを用いることを、可及的に控える必要が生じます。しかしながら、当事者の真意は、曖昧模糊とした心理状態の中にこそ埋まっていることも多々ありますので、誤訳を防ごうとすることと、真意をできる限り正確につかもうとすることとの間には、相反する面があることも否定できません。

少し目線を上げれば、そもそも弁護士は、クライアントの生の主張を、法律上の主張に再構成すること自体が仕事の一つでもあります。法律上の主張に再構成する際には、生の主張をある程度取捨選択し、変換し、整理するといったプロセスが不可避となりますので、このプロセスにて真意が除かれ又は変容されてしまう場合には、クライアントの葛藤を徒に招きやすくなってしまいます。いかに真意を正確に捉えながら、それをより効果的に法律上の主張に再構成することができるか否かは、弁護士の技量でもあり、まさに翻訳と相通じるものがあるように、本展示を通じて感じることができました。

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証拠開示のデジタル化実現に向けて


www.change-discovery.org

刑事弁護人として高名な高野隆先生や後藤貞人先生が代表となって、証拠開示のデジタル化の実現に向けた活動をされています。微力ではありますが、私も一弁護士として賛同署名させていただきました。

かねてから刑事裁判におけるデジタル化の著しい遅れは指摘されていたところでありますが、要望書にも記載されているとおり、現在、政府は国家デジタル化推進方針を表明しているところですので、まさに絶好のタイミングかと思います。「刑事裁判は自分には関係ない」と考える方も少なくないように思われますが、紙をコピーするために多額の費用を要していることや、裁判手続が著しく遅延していること等は、結果的に国民全体での税負担につながる事柄ですので、決して他人事ではないとも思われます。

デジタルネイティヴが増加し続ける今後の社会においては、刑事裁判の証拠開示にとどまらず、裁判手続全体がデジタル化していくこと自体、その利便性やアクセシビリティの向上に直結するものであって、もはや避けて通ることはできないでしょう(他方で、デジタルに不慣れな高齢者の方々などが不便・不利益を被ることのないように、裁判手続のインクルーシヴなデザインも必須になると考えます)。日々の弁護業務や活動等を通じ、よりよい司法の構築に少しでも携わることができればと思います。

 

遺留分侵害額(減殺)請求権行使の心理的負担と消滅時効

2018年の民法改正により、遺留分減殺請求権は、遺留分「侵害額」請求権に変更されました(2019年7月1日施行)。改正前の遺留分減殺請求権は、目的物に対する物権的効果を有していたため、金銭的な解決を図るにはやや迂遠な場合がありましたが、改正後の遺留分侵害額請求権によって、下記のとおり、直ちに金銭請求手続を執ることができるようになりました。

民法1046条1項

遺留分権利者及びその承継人は、受遺者又は受贈者に対し、遺留分侵害額に相当する金銭の支払を請求することができる。

もっとも、遺留分侵害額請求権の消滅時効は、下記のとおり従前から変更がありません。

民法1048条

遺留分侵害額の請求権は、遺留分権利者が、相続の開始及び遺留分を侵害する贈与又は遺贈があったことを知った時から1年間行使しないときは、時効によって消滅する。相続開始の時から10年を経過したときも、同様とする。

遺留分とは、非常に難解な論点を孕む分野でありますが、請求権者にとって最も懸念される事態は、上記のとおり遺留分侵害額請求の時効期間が「知った時から1年」と非常に短いことから、この期間内に請求権を行使できず、当該権利を時効によって消滅させてしまうことと考えられます。言い換えれば、遺産関係に対する速やかな法的安定の要請がそれだけ強いということでもあります。

被相続人の死亡により、相続人は深い喪失感を抱いてしまうことも多く、それ自体は極めて自然なことですが、そのことによって自らの権利をなかなか行使する気になれず、又、遺留分の主張自体を被相続人の意思に反する行為と捉えて躊躇してしまったりする等の心理的な葛藤もあり、相続後の種々の届出等の手続に追われているうちに時効期間の1年はあっという間に過ぎてしまいます(仮に、遺留分侵害額請求権を行使した場合でも、これにより生じた金銭債権は一般債権と同様5年間の短期消滅時効民法166条1項]に服するため、調停前置主義[家事事件手続法257条等]に鑑みればなお注意を要します)。

精神科医であるフロイトやボウルビィ等が指摘したように、外的対象喪失による哀しみを乗り越えて心の再建を図るには、喪失体験を受け入れていく心理的過程(喪の作業)を経るための時間が必要となります。対象喪失体験から回復するための期間の長短は、個々人の事情に大きく委ねられた問題でありますが、一般に深刻な喪失体験から回復するには、少なくとも一年以上かかると言われており、喪の作業を終えるに上記時効期間はあまりに短いとも言えるでしょう。また、相続人においては、心の問題を整理することのみならず、今後の生活を支える経済的基盤を早期に整えることも必須です。

遺言内容は、その作成時期や、財産関係把握の不十分等により、相続時における被相続人の考えや実態と大きくかけ離れた内容となってしまっていることも存します。そもそも遺留分制度の趣旨は、残された相続人の生活保障、潜在的持分の精算、及び実質的公平の確保等にありますので、被相続人の意思を闇雲に推し量ることにより、かかる正当な権利行使自体を躊躇う必要はありません。翻って、被相続人においては、遺言において財産処分・分配に関する事項を形式的に定めておくことのみならず、その理由や根拠、思い等まで表明しておくこと等で、相続後のトラブルを可及的に抑制することにもつながります。

自身で上記行動を執ることに支障を感じた場合は、弁護士に委任することも有効な方法の一つです。心理的負担が緩和・軽減されることはもちろん、経済的にも大きなメリットを受けられることと思います。

セドリック・クラピッシュ『おかえり、ブルゴーニュへ(CE QUI NOUS LIE)』

 

おかえり、ブルゴーニュへ(字幕版)

おかえり、ブルゴーニュへ(字幕版)

  • 発売日: 2019/05/08
  • メディア: Prime Video
 

 本作は、『スパニッシュ・アパートメント』等で有名な、セドリック・クラピッシュ監督による2017年に公開された映画です。父の死やそれにより生じた相続等を契機として、兄弟たちがそれぞれ抱える問題を乗り越え、家族との関係を徐々に再構成していく様を静かに描き出した作品です。ブルゴーニュ地方のぶどう畑の移ろいを切り取った美しい映像が、起伏の少ないストーリーに、嫋やかに彩りを添えます。

本作のように、相続によって、それまでぼんやりと抱えていた問題が突然鮮明に浮かび上がることは間々あります。劇中でみれば、長男は父との確執、次男は義父との価値観の相違、長女はワイン造りを承継することへの自信の無さ等といったところですが、このことは決して本作品に限った事柄ではありません。たった一つの相続という事象であっても、その背後には経済的問題を超えた幾多の問題が生じ得るのです。

劇中にて、彼らが問題を乗り越えるために重要な要素となったものが、生来より常に彼らの真中にあり、そして相続対象となった不動産でもあるぶどう畑でした。この畑での作業シーンにおける長男の一人語りが非常に印象的です。

”フランスの冬を忘れていた 果てしなく長い冬だ 

畑に出ると実感する 土地は我々のものだと 

血筋や所有権は大地との絆に関係ない 

土地に愛着が湧くと理解できる 実は人間が土地に帰属しているのだ”

所有権や相続とは、言ってしまえば単なる観念上の存在にすぎません。あくまで当事者にとっては、直接の手作業や触れ合いを通じてしか、土地や家族という実態を現実味をもって把握することはできないのであり、そのことは法律家にとり大変な実感を帯びて突き付けられます。劇中でも、土地や相続・税金のこと等を事務的に話す弁護士がシニカルに描かれておりますが、兄弟たちはそのアドバイスどおりの即物的解決には陥いることなく、手作業を通じ互いに依り合うことで新たな物語を豊かに記述していき、自律的な解決方法を見い出すに至ります。

今日の法律家の役割は、現在進行形で拡大を続け同時に曖昧さも増していますが、他方為し得る解決の限界は十分に認識しなければならないと考えます。もっとも、とりわけ思いが錯綜し感情の縺れが生じやすい相続問題の解決に臨むに際しては、少なくともその背後にある事柄に対し十分に想像力を働かせ、多面的に検討すべきことはもちろん、また、ときに当事者の手作業を通じた物語の自律的再構成を、解決に至るまでのプロセスにおいて、できる限り支えていく必要もあるのではないでしょうか。

 

黒澤明『羅生門』

 

羅生門 デジタル完全版

羅生門 デジタル完全版

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

本作品は、1950年に公開された黒澤明監督による言わずと知れた邦画です(原作:芥川龍之介『藪の中』『羅生門』)。脚本の独創性はもちろん、躍動的なカメラワークや光影の強烈なコントラストといった実験的手法、歴史的意味合い等、様々な角度から語ることが可能な名作ですが、やはり最大の魅力は、事件を巡って登場人物が各々異なった語りを行うというシンプルかつ奥行あるストーリーテリング自体にあるように感じられます。

これに関連し、心理学者・山田洋子氏は、『映画「羅生門」にみる証言の場の多重性』(現代のエスプリ350号/目撃者の証言―法律学と心理学の架け橋[188頁])という論文にて、本作品の特徴である多声の語り(事件当事者、目撃者、傍観者)とともに、その場所においても、①語られた犯行現場(藪の中:炎天)、②公的語りの場(法廷:白州)、③私的語りの場(羅生門:豪雨)、④黒澤明の物語、⑤観客の場という多重構造になっていることに着目し、本作品を、語りが「場所」との関連で生成されることを示す絶好の心理学モデルとして眺めることができると論じた上で、さらに以下のように言及します。

”…必ずしも人が嘘をつくということではない。人は、いつもすこしずつズレのあるパラレル・ワールドを移行しつつ生きている。過去の自分と現在の自分とのあいだにはギャップがある。過去の体験を語ることは、記憶の貯蔵庫にしまった固形物を引き出す作業ではなく、現在という場の情況のなかで、聞き手との相互作用のなかで生成される共同作業である。語ることによって過去が蘇り、断片的な体験に連関や意味が生み出されてくるのである。”

”観察者や語り手や聞き手がおかれた立場や視点という「場所」を抜きにして、脱場所的視点から純粋に第三者として、ものを見たり、体験したり、語ったりすることが可能かどうか、今まで客観的現実というものを成立させると考えられてきた前提そのものを根本的に問い返すことになるだろう。”

ここで、弁護業務に関し発生し得る語りの「場所」について考えると、弁護士にとって事件の端緒となる法律相談等はもちろんのこと、その後の交渉、法的手続(調停・審判・裁判等)、ひいてはメディア、インターネットといったように、可能性に照らせばその外延は際限なく広がっていきます。語りが「場所」との関連で生成される以上、発生する語りが「場所」の特性に大きな影響を受けることは明らかであって、「場所」によって語りの内容とそれを支える材料の有無・程度は当然に変化し得るわけであり、誤解を恐れずに言えば、裁判にて顕れる事実も、裁判という一つの「場所」において語られた/語ることの許された事実にすぎません(また、弁護士としては、このような「場所」の特性を利用できるような強かさも必要であるように思われます)。

さて、監督は、原作には存在しない終盤における羅生門前での旅法師と浮浪者のやりとりをもって、本作をエゴイズムとヒューマニズムの問題として明快に収斂させたとみるのが大方の見解のようです。しかしながら、氏の上記論考を前提とすれば、それすら事件を中心とした一つのパラレル・ワールドにおける一つの語りにすぎないのかもしれません。