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弁護士稲益寛明による法律×心理×情報処理その他関心事を書き留めるブログです。

託摩佳代『人類と病 ー国際政治から見る感染症と健康格差ー』

 

先日、ようやく2回目のワクチン接種を終えました。大変恥ずかしながら、私は元来注射が非常に苦手な上、今回のワクチン接種でも発熱や頭痛が数日にわたり継続するなど副反応もきつく、出来ることならもう打ちたくないというのが正直な感想ではありました。とはいえ、感染症に対峙する人類の歴史を振り返るに際しては、ワクチンの功績なしに語ることなど到底できないようです。

本書は、 国際政治学を専門とする、東京都立大学教授の託摩佳代氏による著作です。種々の感染症と人類の闘いについて、国際協力の在り方からその歴史をダイナミックに論じています。とりわけ「健康への権利(Right to Health)」を論じた章は、医療アクセス確保が喫緊の課題となっている今日のコロナ禍の状況において、大変興味深い内容でした。

我が国において健康権は憲法25条により保障されていますが、そもそも法的に観念される「健康」とはいったい何を意味するのでしょうか。WHO憲章によれば、「身体的・精神的、社会的福利のことで、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義されており、到達し得る最高水準の健康を達成することはすべての基本的人権の一つ、とまで位置づけられています。

さて、我が国では、上記のような健康への権利を十分に享受することができているといえるでしょうか。医療アクセスをめぐる問題が極めて政治的問題であることは、今日のコロナ禍を巡る状況からも明らかであり、そのことは決して国際的問題だけに限定されたものではないようです。しかしながら、著者も示唆するように、この政治的な影響力というものを排斥することは現実的でなく、むしろそれ自身が所与のものとして活用され、権利の実現にうまく転換が図られることを期待すべきなのかもしれません。健康への権利に対する関心は、国内外問わず今後ますます高まっていくように思われます。

ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』

 

 本作は、『エル・スール』等でも有名な、スペインの巨匠ビクトル・エリセ監督による1973年に公開された映画です(タイトルは、詩人であるモーリス・メーテルリンクの作品から引用されています)。スペイン内戦(1936~1939年)終結直後における中部カスティーリャ高地の小さな村を舞台に、6歳の少女とその家族たちの日常が淡々と描かれています。

本作が制作された背景には、当時のスペインにおけるフランコ政権(~1975年)による独裁といった国内事情があったようです。独裁政権下では厳しい検閲が行われ、国民の言論・思想・表現が徹底的に統制されてしまうことは古今東西を問いません。

本作では、スペイン政府からの検閲を逃れるために、多くのシンボリックな映像や、メタファーが随所に散りばめられています。それゆえの抽象的で静謐な雰囲気と、不穏で荒涼としながら詩情に溢れた景色、主人公の少女が向ける純粋無垢な眼差し、それを通じた幼児期特有の心理描写等が絡み合って、得体の知れない暗示をかけられたような不思議な感覚を観る者に抱かせます。

表現の自由そのものが制約される中、理性をもって抗い乗り越えようとする創造力を源泉とし生み出された、非常に貴重な映画作品の一つと思われます。一法律家からの視点においても、大変興味深く観賞することができました。

Henning Shmiedt『Spazieren』

 

 本作は、旧東ドイツ出身のピアニスト、作曲家、編曲家であるヘニング・シュミート氏によるピアノ・ソロ作品です。2000年以降静かに流行したポスト・クラシカルの文脈で語られることの多い氏の、”散歩”と題された本作は、静謐かつ内省的な響きを湛えながらも温かみを兼ね備えており、当事務所においても平時のBGMとしてよく流しています。端から癒しを目的とした音楽とは異なって、あからさまな機能性はなく、自然な風通しと肌触りのあるところなどが個人的に非常に気に入っております。

ここで、熊倉敬子氏の論文『音の投影法の研究』(慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会心理学教育学No.30(1990.),p.21-28)によれば、「音刺激は…物語のつくりやすい刺激」であり、「物語の進行を容易に」し、「直感的にイメージが浮かびやすく、過去の記憶を想起させやす」いとされています。

このような音刺激の効果に照らせば、基本的にはダイアローグを志向すべきクライアントとの面談の場面はもちろんのこと、平時の職場環境づくりにおいても音楽を流す場合には相応の注意を払う必要があるように思われます。他方で、単純に自分の好きな音楽を聴きながら仕事などをすると非常に捗るというのは誰しもが経験したことのある事柄でしょう。私自身も、毎朝職場に来るたび、仕事をするための音楽を選ぶことが、ささやかな愉しみであったりもします。

大野志郎『逃避型ネット依存の社会心理』

逃避型ネット依存の社会心理

逃避型ネット依存の社会心理

 

 本書は、社会情報学、社会心理学、情報教育・情報行動を専門とする、東京大学情報学環助教の大野志郎氏による著作です。

著者は、本書において、インターネット依存問題の詳細と、過度なインターネット使用がもたらす様々な実害について確認した上で、インターネット依存と心理社会的変数(孤独感、対人生活満足度等)とを結びつける変数として「逃避」にフォーカスします。そして、「逃避型ネット使用」を、「インターネット使用の動機が…心理的ストレスから逃れたい、忘れたいなど、消極的・受動的に生じるものであるケース」と定義した上で、下記のとおり述べます。

…逃避型ネット使用という概念は、インターネット依存と密接に関連している重要な要素だが、それが操作可能であることが、特に注目すべき点である。逃避型ネット使用得点を低く保つためには、逃避の要因となっていると考えられる心理的ストレス要因を特定し、現実逃避を必要としない状態とすること、あるいは逃避の手段としてウェブアプリケーションを用いないこと、ストレスの対処として逃避以外の戦略を身に付けることが方法として考えられる。もちろん、逃避は場合によっては効果的に働き、ポジティブな結果に結び付く可能性もある。また、ネガティブな結果をもたらす場合にも、逃避というモチベーションを操作することは簡単ではない。しかしそれでも、逃避型ネット使用を抑制する必要を感じた場合には、現実における問題と向き合い、解消を目指すべきだろう…

昨今のマスメディアにおいては、コロナ禍での巣ごもり要請等により、インターネット依存患者が増加傾向にあると報道されており、実際、インターネット依存傾向が影響していると思われるような法的トラブルに関する相談も少なくありません。

インターネット依存の核心的症状の一つとして「主要性」というものがありますが、これは、日常生活においてインターネット上の優先度が高まり、時間的にも心理的にも最も主要なものとなっている状態を意味します。弁護業務に従事する中で、とりわけインターネット上のトラブルは、生身のトラブルに比して、当該トラブルに対する当事者本人と第三者との間における認識・感覚のギャップが大きいように感じることがありますが、それは、この「主要性」が大きく影響しているのではないかと考えられます。この場合、「主要性」が逃避を介して生じていたものなのであれば、著者が指摘するように逃避要因を特定して、それを軽減させるような方法を考え出すことも、当事者にとっては一つの解決手段となるように思われます(法的アプローチはせいぜい問題の端緒となるにすぎません)。もっとも、逃避以外の戦略を自発的に身に付けることは容易なことではないと思われ、医師やカウンセラー等の専門家の助力を得ることも時に必要となるでしょう。しかしながら、専門家に相談することが一般的とは言い難い日本においては、インターネット依存の問題が今後より慢性的・構造的問題を孕んでくることは時間の問題のようにも感じられます。

健全なインターネット環境の構築・発展には、テクノロジーを妄信することなく、その弊害・対処法についても真正面から向き合い議論を重ねていくことが必須と考えます。したがってまた、一般消費者側においても、ハードウェア・ソフトウェアの利便性のみで利用の適否を判断するのではなく、引き起こし得る弊害につき開発側が自発的に対処法を施しているか否かなどをあらかじめチェックした上で選別・利用する等の情報リテラシーまでもが求められるように思われます。

テキスト・コミュニケーションにより生じる誤解

今日社会問題化しているインターネット上の誹謗中傷等トラブルについては、その匿名性が原因の一つとなっていることが多いと考えられています。しかしながら、友人や同僚、恋人同士や夫婦等といった特定の個人間であっても、メールやLINE等の些細なテキスト・メッセージのやりとりから、トラブルに発展してしまうことがままあります。

これに関し、次のように、「メールと音声による皮肉表現の伝達率」に関する興味深い実験があります(Kruger, J., Epley, N., Parker, J., & Ng, Z.-W.(2005).)。

…メールでも音声でも、受け手はメッセージのニュアンスに気付くはずと、送り手は自信たっぷりで…80%程度の確率で正確に伝わるはずと予測した。受け手の伝達率は音声条件で73.1%と、ほぼ予測どおりの値が得られ、予想は裏付けられた。しかし、メール条件の伝達率は56%と偶然確率をわずかに上回るにとどまった。

メッセージ文を読んだり聞いたりしたあとで、すべての参加者がメッセージのニュアンスを検出できるのはどのくらいと思うか評定した…メッセージを読んだ人は、皮肉と本心を弁別できていなかったにもかかわらず、弁別できていると固く信じていた。彼らはメッセージを音声で聞いた人たちのように、自分たちの検出能力に自信を持っていただけだった。

人々がオンラインでコミュニケーションする際、こうした自信過剰と自己中心主義が何をもたらすか想像できよう。誤解されたテキストメッセージは、有益な議論を敵意に満ちた攻撃的やりとりに転化する可能性がある…

『パトリシア・ウォレス/インターネットの心理学』

音声よりもメールの方がニュアンスが伝わりにくくなること、そして受け手はニュアンスの弁別に自信を持っていることは、弁護業務においては勿論のこと、日常生活においても留意を払わなければならない点のように思われます。音声によるコミュニケーションを日常において殊更意識することはほとんどありませんが、テキストによるそれと比べた場合、伝達内容そのものに加え、時間軸が発生するとともに、声の大きさ、トーン、明瞭度、スピード、タイミング等、様々ないわば情緒的変数が加えられるため、テキストに比しその情報量が圧倒的に多くなります。例えばテキストファイルのデータ量と、音声ファイルのデータ量を比べた場合、同じ内容であっても、前者に比し後者のデータ量が非常に多くなります。これを超えて、映像音声付オンライン・コミュニケーションによる場合や、直接のコミュニケーションによる場合においても、順次情報量が増加すると共に同様のことがいえるでしょう(このことは、裁判における尋問記録がテキストでしか残らないという問題等にも関わるものと考えられます)。

今日では、新たなコミュニケーション手段が次々と開発され、それらが日常において並列的に扱われることも多いため、「自分の伝えたいことが正確に伝えられているか」というコミュニケーションの根幹について、考えを及ぼすことが希薄になっていることが少なくないように感じられます。コミュニケーション手段の選択により生じるリスクは、何も情報漏洩に限ったことではありません。自戒を込めてではありますが、利用するコミュニケーション手段について、それを用いることが適切であるかどうか、改めて問い直してみる必要があるように思います。

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フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館 ―エクス・リブリス―』

 

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(字幕版)

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(字幕版)

  • 発売日: 2020/08/19
  • メディア: Prime Video
 

 本作品は、2017年に製作された巨匠フレデリック・ワイズマンによるドキュメンタリー映画です。タイトルのとおり、ニューヨーク公共図書館の多岐にわたる活動、サービス、その舞台裏等に焦点を当てた内容となっています。それらは、単なる書籍の貸出にとどまらず、就職活動支援、パソコン教室やダンス教室、演劇、朗読会等のほか、リチャード・ドーキンス、エルビス・コステロといった著名人によるトークショー、ひいてはコンサートにまで及びます。もっとも、映し出される各場面の状況や登場人物、議論内容等の説明は一切なく、ストーリーとしての抑揚は排斥されている上、3時間半程度のボリュームもあるため、ともすれば非常に退屈な作品に感じられてしまうかもしれません(私自身も途中で休憩を挟んで鑑賞しました)。

何よりもまず図書館が、民主主義社会での情報の扱いに関する深い議論と高い理念に基づき、ここまで多様なサービスを提供していることに非常に感嘆しましたが、一面それはいかなる公共サービスをいかなる機関の分掌とするかという役割配分の問題でもあり、多分に社会的文化的差異に影響を受けるのであって、ニューヨークという米国の文化運動中心地であるからこそ成立しうる側面もあり、このシステムが何処でも通用するかというとそうではないようにも感じました。とはいえ、市民の文化的な生活を維持・向上させるためのサービスを、知識・情報の集合体である図書館が提供するということは、少なくとも民主主義社会においては非常に相性がよく、他の機関に委ねた場合に比して質の高い内容となるように感じられました。

とりわけ目を引いたのが、デジタル・ディバイド問題の解消に向けて、モバイル・ルーターの無料貸出サービスを行っていた点です(デジタル・ディバイドとは、「インターネットやパソコン等の情報通信技術(ICT)を利用できる者と利用できない者との間に生じる格差」のことを言います)。「インターネットの普及によって、誰でも、いつでも、どこでも情報にアクセスできるという情報平等社会が到来した」との言説がありますが、これは各人においてアクセス環境が整い、情報モラルやリテラシーが身についていることを前提としているのであって、実際には、年齢や所得等により大きな情報格差が生まれています。各人の平等な情報アクセスというのはあくまで理想にすぎず、行政等による支援がなければより事態は深刻になってしまう現状にあると言わざるをえないようです。

ここで、行政から司法へスライドさせてみると、司法への平等なアクセスを確保するという声高に叫ばれた司法制度改革の理念に鑑みれば、裁判手続におけるICT環境の整備のみならず、弁護士の提供するサービスにおいても、クライアントとの間におけるICTの利活用・支援等は必須となるように感じます(それは限りあるリソースを必要な議論に集約し充実させることにもつながると考えます)。しかしながら、ファクシミリでの伝達慣行が未だに残ること等に象徴されるように、上記理念の達成への道程は相当の困難があるように感じざるをえません。ときに窮屈で億劫にも感じられるICTサービスを、いかに快適に利活用・提供できるかは、弁護業務においても当面の課題となるようです。

 

企画展「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」


www.2121designsight.jp

本展示は、国籍を超えて様々な表現媒体に携わる情報学研究者のドミニク・チェン氏がディレクションを務めた企画展です。AIによる自動翻訳を用いた体験型の展示や、複数の言語を母国語とするクレオール話者による映像、手話やジェスチャーといった身体表現、人と動物そして微生物とのコミュニケーションに至るまで、さまざまな「翻訳」のあり方を提示する作品が紹介されています。どれも非常に興味深い作品ばかりでしたが、特に永田康裕氏の「Translation Zone」という作品が最も印象に残りました。

本作品では、「料理の翻訳」にまつわる考察を始めに、情報伝達によってあいまいな意味や感情がこぼれ落ちていくことに焦点を当てることにより、文化の中にたゆたう「翻訳しきれないもの」を炙り出すことを試みているとのことです。その思考の具現化が秀逸で、例えば、「炒飯」や「ポトフ」といった、味覚や嗅覚等をもって具体的にイメージしやすい身近な料理の言葉と調理時の映像を用いることで、その翻訳時にこぼれ落ちる要素を、鑑賞者に対し非常に明瞭に認識させることに成功しているように感じました。

グローバル化が進展する社会において、弁護業務においても「翻訳」というテーマは決して無視することができません。渉外事務所に勤める弁護士はもちろんのこと、私のような小さな個人事務所の弁護士でも、外国人労働者の労働問題、海外法人が運営するSNS上のトラブル、国際結婚にまつわる法的問題等において、翻訳をめぐる様々な困難に直面することがあります。

翻訳作業には常に誤訳の問題が付きまといますが、中でも要通訳刑事事件の公判等においては、即時性が求められるが故にとりわけ強く顕在化するところであり、誤訳によって被告人に不利益が生じることのないよう、細心の注意を払う必要があります。誤訳を防ぐためには、曖昧な表現や、多義的な表現、誤訳の生じやすい構文(二重否定等)などを用いることを、可及的に控える必要が生じます。しかしながら、当事者の真意は、曖昧模糊とした心理状態の中にこそ埋まっていることも多々ありますので、誤訳を防ごうとすることと、真意をできる限り正確につかもうとすることとの間には、相反する面があることも否定できません。

少し目線を上げれば、そもそも弁護士は、クライアントの生の主張を、法律上の主張に再構成すること自体が仕事の一つでもあります。法律上の主張に再構成する際には、生の主張をある程度取捨選択し、変換し、整理するといったプロセスが不可避となりますので、このプロセスにて真意が除かれ又は変容されてしまう場合には、クライアントの葛藤を徒に招きやすくなってしまいます。いかに真意を正確に捉えながら、それをより効果的に法律上の主張に再構成することができるか否かは、弁護士の技量でもあり、まさに翻訳と相通じるものがあるように、本展示を通じて感じることができました。

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